幸せの時間

幸せの時間(小説)
小説短編

初出:Prologue

 今日は暖かい陽気だ。先日、中庭に咲いているムスカリやチューリップが綺麗だと聞いた。早速彼女を外へ連れ出したくて、気持ちのいい日差しの中、僕は急ぎ足で彼女の部屋を訪れた。

「――おはよう。今日はいい天気だね」

 彼女は窓際の椅子に腰を下ろし、窓の外を眺めていた。彼女の部屋からは丁度中庭が見え、四季折々の花や緑が楽しめる。
 部屋にはシングルベッドが一台、木製の小さな丸テーブルと椅子が二脚、小物を入れる引き出しが二つある。前回差し入れた本や雑誌が窓際に重ねて置かれていた。

「少し散歩しない? 花が綺麗に咲いてるんだって」

 彼女の視界に映るように近づいて話しかけた。何も映していなかった彼女の瞳に光が宿り、ゆっくりこちらに顔を向けた。

「ああ、大地さん。来てくれたのね。会いたかったわ」
「外に出よう。ほら」

 彼女の手を取るとゆっくり立ち上がり、僕に愛おしそうな笑顔を見せた。

 廊下に出るとすれ違うスタッフが笑顔で挨拶してくれる。カードキーでエレベーターを呼び、彼女を連れて一階に降りた。
 痩せた細い手。力のない手を優しく握って彼女の手を引くと、ゆっくり歩いて中庭に出た。彼女は少し眩しそうに目を細め、太陽の光を遮るように頭上に手をかざした。

「見て、色んな色のチューリップが咲いてるよ」
「……本当ねえ。前にドライブで連れて行ってくれた向日葵畑も綺麗だったわね」

 確か二十五歳の夏にデートで遠出した時のことだ。彼女の中で強く印象に残っているのだろう。

「向日葵も綺麗だったね。また行ってみる?」

 叶いもしない希望を提案してみた。

「今日の朝ご飯はね、私の嫌いな納豆だったの。いつも言ってるのにすぐ忘れちゃうのね」
「……納豆嫌いだったね。一緒にいたらもらってあげたんだけどね」

 それに返事はなく、彼女はぼんやりと空間を見つめていた。ピンクや黄色の可愛らしい花に集まる蝶や虫たち。春のそよ風が優しく吹き抜ける中庭。手を繋いだまま映る僕たちの影。

 もう、彼女の目は何も映していなかった。

「――それじゃあ、また来週来るからね」

 彼女を二階の部屋へ連れて戻った後、また窓際の椅子に座る彼女はこちらを見ることなく窓の外を見ている。僅かな寂しさを覚えたが、僕はそっと部屋を出て扉を閉めた。

 翌週の土曜日。
 お昼すぎに彼女の部屋を訪れた。

「こんにちは」

 一週間ぶりに見た彼女は窓際で本を抱え、うずくまっていた。
 僕は慌てないよう、いつもの声音でゆっくり話しかける。

「――こんな所にしゃがんで、どうしたの?」

 うずくまっている彼女が持っていたのは本ではなく、僕がここで初めて彼女に見せた家族のミニアルバム。何か、思い出したんだろうか。僅かな期待に胸を膨らませながら、ゆっくり彼女に声をかけた。

「アルバムを見ていたんだね」

 彼女の前にしゃがみ、視界に入ろうと顔を覗き込んだ。彼女の顔に、少し寂しそうな表情が浮かぶ。

「……あの子は……? この間、運動会の百メートル走で二位だったんでしょう?」

 あの子はどこなの、とせがむように訴える彼女。込み上げるものを何とか飲み込み、逸る気持ちを落ち着かせると、深呼吸してようやく口を開く。

「本当に、惜しかった……ね」
「大地さん、あの子は家でお留守番させてるの? まだ十歳よ、一人は危ないわ」

 不安そうな顔を僕に向けて、彼女は僕の袖をしっかりと掴む。

「……今日はお爺ちゃんの家にいるから大丈夫だよ」
「お爺ちゃん……」
「お義父さんのところだよ」
「……ああ、あの子は父が好きだったから……。あの子……名前は……」
倭人やまとだよ」

 彼女は思い出そうとしているのか、難しい顔をしている。
 僕は彼女の手を取って立ち上がらせると、ゆっくり椅子の方へ座らせた。

「倭人は地元の中学に入ったんだよ。高校も同じ地元の公立高校でね、国公立の大学も卒業して今は広告代理店の企画営業をしてるんだよ」

 彼女は今、遠い記憶の中で生きている。楽しかった記憶の中だろうか。大地の日記には彼女との思い出が山ほど書かれていた。彼の遺品が彼女との会話に随分と役に立った。
 大地と行った向日葵畑。同じところへ家族でも一度行ったことのある場所。彼女の記憶の中にあるのはどちらだろう。

「今年の夏に倭人の子供が産まれるんだ。男の子らしい」

 そっと彼女の手を握る。皺とシミが沢山ついた働き者の手。二年前ほどから僕を大地と呼ぶ彼女。彼がいなくなってからずっと一人で孤独に耐えてきたのだろう。僕のことも忘れてしまうほどに。

「子供が産まれたらここに連れてくるよ」

 どうかその時は一瞬でいいから思い出して欲しい。
 ……あなたの孫を抱いて欲しい。

 部屋に入り込む日差しが照らす彼女の横顔は、化粧をしていない少女のようにも見えた。
 彼女はふと視線をこちらに向けると、優しく微笑んだ。

「楽しみにしてるわね。――倭人」

 手を握り返し、僕の肩をポンポンと叩いてくれたのは、ほんの僅かな出来事。……久しぶりに戻れた束の間の、親子の時間だった。

 
<終>