あなたが優しすぎるから

あなたが優しすぎるから(小説)
小説短編

短編ですが少し長めなので前後編で区切ってあります。

前編

「もう、いい加減出てってよ! ここはあたしの家なの!」
「おっと」

 投げたテレビリモコンは彼に当たらず、ガシャンと音を立てて電池カバーの外れたリモコンが床に転がる。
 それを見ながら彼は慌てる様子もなく部屋の床に堂々と座った。

「結婚してくれないくせに、もう一緒にいる意味ないでしょっ!!」

 本当のことを言われて彼は眉尻を下げるが、私が追い出せないことを分かっていて私の家にずっと居座り続けている。

「やっぱお前のことが心配だから放っておけないよ」
「あんたがいたら、新しい彼氏作れないじゃん。だから早くここ出てって!」

 目の前で彼が大事にしていたゲーム機を捨ててやった。おそろいで買ったカップや食器も捨てた。着替えだって――。

「お前が自分を傷つけるの止めたら考える」

 憂いを帯びた彼の視線は、私の目から手首へ移動する。

「もっと、自分を大事にして」
「……あんたのせいで、こんなに苦しいのに……」

 クリスマスイブに会う約束をしていたけど、彼はすっぽかした。休みを取って2日間、クリスマス当日も一緒に過ごす予定だったのに。
 イブの前日。仕事が終わった後に彼は会社の女性と二人で出かけていた。そのまま彼から連絡がくることは一度もなかった。

「ごめんな……」

 彼が会社の女性を車に乗せて出かけたことを知ったのは、クリスマス当日。

「……ずっと待ってたのに……、嘘つき」
「ごめん」

 私を裏切って会社の女性と一緒に過ごしていたなんて信じられなかった。
 彼がそんなことをするわけない。
 いつも私に優しくて、大切にしてくれて、結婚しようと言ってくれたから、彼との将来だけを見てきた。
 イブの日に正式なプロポーズをしてくれるのだと浮かれていた。
 私は彼を疑ったことなど、一度もなかったのだ。

「もういい加減……どっか行ってよー!!」

 感情に任せてつかんだクッションを彼に投げつける。
 それは彼をすり抜けて床に転がった。

 クリスマスの朝にかかってきた電話は、私を容赦なく絶望の底へ突き落とした。

『居眠り運転の車が突っ込んできて、二人とも即死だったと――』

 彼が同乗していた女性と一緒に死んだということが、現実だとは思えなかった。酷い悪夢か何かだと……。

 彼のご両親に初めて会ったのは、葬儀社の霊安室。
 本来なら、ご両親に会わせてもらうのは年明けの予定だった。
 まだ互いに顔を知らなかったため、事故当日、ご両親は車に同乗していた女性が私だと思っていたそうだ。けれど被害者の女性が私の名前ではなかったことを知って、ご両親が連絡先を調べて私にかけてきてくれたのはクリスマスの朝だった。
 彼のご両親は泣き縋りながら何度も私に謝った。彼がどういう経緯で被害者女性と過ごしていたのか誰にも分からない。なのに、恋人を残して逝ってしまった彼の親として、責任を感じたのかもしれない。

 

 その後をどう過ごしたのか覚えがないまま、何もかも終えて家に帰った。
 片付ける気力もなく、散らかったままの部屋。

 そこに佇む影を瞳に捉えた。
 ぼんやりとそこに立ち尽くす彼を。

 一瞬泥棒かと思ったけれど、彼の向こう側に透けて見える景色が生きた人ではないと教えた。

「何で、ここにいるの……」

 ゆらりと影が揺れて、彼がこちらを見る。

「あんたもう、死んだじゃない……。火葬も終わったのに……、何であたしの部屋にいるの……っ」

 何を言おうと彼は何も反応しない。
 ずっと彼の連絡を待ち続けたあの日の気持ちを彼にぶつけた。
 どんなに罵声を浴びせようと、彼は寂しそうな表情で私を見つめるだけ。
 触れることもできず、ただそこにいるだけ。

 眠って起きれば消えていると思ったけれど、朝になっても彼は私の部屋にいた。

「浮気、したの……? あの日……何してたの……?」

 話しかけたって何も返してくれない。尋ねたって何も答えてくれない。
 罪悪感を抱いたまま死んだからか。心残りがあるからか。
 彼はずっと私の部屋にいて、私を見ているだけだった。

「何で黙ってるの。言い訳なら聞いてあげるから、言えばいいじゃない……っ!」

 どんなに泣き喚いても彼は答えてくれなかった。

 

 時々仕事帰りにうちへ来る彼は、遅くなることがあっても必ず約束を守る人だった。

「遅くなってごめん、仕事手伝ってたらこんな時間に……」
「お疲れ〜! 相変わらずお人好しだね。また人の仕事手伝って。あ、寒いから鍋うどんにしたんだけど」
「ありがとう。寒かったからあったかいの嬉しい。仕事はね、不器用な人もいるから後で溜め込みすぎないようにって思うとつい、ね」
「お人好し」
「どーも」
「褒めてない」

 ハハッと笑う彼はキッチンで鍋を温める私を後ろから抱き締めて「あったか〜」と人の熱で暖を取る。
 危ないよと言っても離れず、首筋に唇を寄せたり耳たぶをかじったり、邪魔ばかりして。
 すごく愛されていると感じていた。

 

 どうして知らない女の人と一緒だったの。
 どうして一緒に死んだのが、私じゃなかったの。

「……あたしがあんたのところへ行けば、話してくれる……?」

 衝動だったと思う。
 気づいたら、キッチンのシンクに流れる鮮血を見ていた。
 不思議と痛くなく、ドクドクと脈が早まり熱くなっていくのを感じた。
 すると、ずっと表情の変わらなかった彼が酷く表情を崩し、私の前に立って涙を流す。

 初めて見た彼の泣き顔に胸の方が痛んだ。
 彼は私がした行為を、酷く悲しんでいるようだった。
 咄嗟にやってしまったことを後悔し、左腕をタオルで押さえる。傷自体は浅かったようで、しばらくして出血は止まった。

 それから彼はずっと、私に寄り添うようにそばにいた。

 けれどそばにいるだけで何も言ってくれない彼に苛立ち、私がいつまでも前を向けないことを彼のせいにした。
 八つ当たりをして、家の中にあった彼の物を捨てて、一緒に死んだ女のところへ行けばいいと罵った。

 彼は悲しそうにずっと私に寄り添い続ける。
 このままじゃおかしくなりそうだった。

 このままじゃ、いけない。

 

後編

 休職したまま引きこもっていた私は、彼の会社を訪ねることにした。

 事前に約束を取り、彼の同僚だと言う人が応対してくれた。
 同僚の男性が調べてくれたのは、彼が亡くなったあの日に居合わせた人がいたかどうか。
 そこで会わせてくれたのが、その日勤務していた警備員の男性。
 亡くなった女性社員と彼が車に乗るまでのことを、その場に居合わせたという警備員が話してくれた。
 警備室の防犯カメラの録画でも確認することができた。

 その映像を見て、震える唇を噛む。涙が出そうになるのをぐっと堪える。
 亡くなった二人と良い仕事仲間だったという同僚の男性は、こんなことになって残念だと、声を絞り出すように話してくれた。

 私はお礼を告げた後、彼の会社を出て急いで自宅へ向かった。
 逸る気持ちを抑えながら。

 あの日。
 一緒に亡くなった女性は、残業を終えて退勤直後に階段から落ちて足を骨折した。
 その様子が防犯カメラの録画に映っていた。
 階段から落ちた女性に駆け寄った警備員。その時間、同じように残業していた彼が女性を病院まで連れて行くことになり、車まで連れて行ったそうだ。
 その病院へ向かう途中で、二人とも事故に――。

 

 浮気ではなかった。

 

 家に入ってすぐ、彼の姿を探した。
 リビングにも寝室にもいない。1LDKの狭い家で探すところなんてほとんどない。
 彼がずっとこの部屋にいても、気配なんて感じることはできなかった。
 視認できて初めて彼がいると認識できた。

 彼は、私に真実が伝わって成仏してしまった……?
 この世への未練がなくなって満足できた?

 見えなければもう、彼の存在を認識できない。

 ぽたりと雫が床に落ちる。
 彼には醜い感情ばかりぶつけた。
 純粋に彼の死を悼むことができなかった。
 私以外の女性を助手席に乗せたことを責めて。
 彼は何も言わなかったけれど、きっと聞こえていた。

「いや……」

 か細い声が零れる。

「いかないで……」

 恨んだ醜い私のまま、この世に残していかないで。

 

 その時、洗面所にゆらりと何かが視界に映る。
 中を覗けばしゃがみ込んだ彼がそこにいた。
 少し前の、拭き忘れの床の血痕を見ながら悲しんでいる彼が、ゆっくり私の方を見る。

「あんたが成仏できないのは……ずっと身の潔白を伝えたかったからなの……?」

 彼は微笑むでもなく、ずっと変わらない表情のまま私を見つめていた。

「疑って……ごめん……」

 熱くなった目が視界を滲ませる。
 元々霞んで見えた彼が更に歪んで見える。陽炎のように。

 優しくてお人好しだった彼の浮気を疑った。信じてあげられなかった馬鹿な私に、訴えたいことがたくさんあったのかもしれない。

 私の目に溢れるものを彼には拭えない。
 私の声に答えられず、優しい言葉もかけられない。

 どんなに泣いても私を抱き締めてくれる彼はもう、いないんだ。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 俺の声は彼女に届かない。

「ふ、ううっ……ずっと、一緒にいたかった……」
「ずっとそばにいるよ」

 声を枯らして泣き続ける彼女を、抱き締める肉体がない。

「……私も一緒に逝きたかった」
「お前が一緒じゃなくて良かった」

 触れられない体で彼女の体を抱き締める。形だけでも。

 浮気を疑われるような状況で死んで、疑いを抱いたまま非難する彼女を俺はただ見ているしかなかった。
 先に逝ってしまった俺に怒り、女性と車に乗っていたことを怒り、泣き叫ぶ彼女に信じてもらえないことを嘆いたりはしない。
 寧ろ彼女の激情に触れ、俺を愛しているからこその怒り、嘆きだと感じ取れて、全てを受け止めてやれない自分が歯痒かった。

 俺は、彼女が幸せになるのを見届けるまで、きっと離れられないだろう。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 春が来て夏が過ぎても、彼はずっと私の部屋にいる。
 相変わらず会話はできないけれど、私が少しずつ笑えるようになってからは彼も微笑んでくれることが増えた。

「あんたすっかりここに居着いちゃったね。まさかあたしに新しい彼氏ができないか見張ってる?」

 目を丸くしてる彼に、まさかねと笑みを零した。

「あたしがずっと一緒にいたいって言ったからずっといてくれるんでしょ」

 この部屋に帰ってくれば彼がいることに安心する。
 同僚たちに色々誘われて出かけることも増えたけれど、相変わらず彼以外の人を好きになることはできない。
 彼がずっといてくれるなら、それもいいかもしれない。

 彼が優しすぎるからあんな事故に巻き込まれて。
 彼が優しすぎるから成仏することもできない。

「ほんと、あんたって馬鹿だよね」

 からかうように言うと、彼ははにかんで笑った。
 彼がずっとここにいてくれる限り、私は彼を愛し続けるだろう。

 
〈終〉